戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」全室源泉100%の温泉宿戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」全室源泉100%の温泉宿

歴史と振り返る笹屋ホテル歴史と振り返る笹屋ホテル

笹屋ホテルのあゆみ笹屋ホテルのあゆみ

開業、戸倉温泉とともに歩む歴史

笹屋ホテルは、1903年(明治36年)9月、戸倉温泉の開祖・坂井量之助によって千曲川右岸に「清涼館笹屋ホテル」として開業しました。建築は総てにわたり吟味して一流を目指しました。この普請一切の采配を振るったのは、量之助の義弟・藤井伊右衛門(長野市)です。
また当時としては珍しいホテルというハイカラな名前を使用しました。この名前をつけたのは量之助の嗣子誠一でしたが、誠一は日露戦争に出征したまま帰らぬ人となりました。享年25才、笹屋ホテル開業の翌年1904年(明治37年)のことでした。

更に、翌1905年(明治38年)温泉開発に精魂を傾けた量之助が事業に奔走中に倒れ、半ばで急逝するという悲運が相次いで坂井家を襲いました。この危急の時、量之助の義弟・藤井伊右衛門が家運をかけて笹屋ホテルを力強く支え、残された量之助の養母れん、妻たか、誠一の妻である嫁千代は手を取り合ってホテルの礎を築いたのでした。
1916年(大正5年)、第三次戸倉温泉の移転開湯をうけて、笹屋ホテルも永久堤防が完成していないこの時期、危険を顧みず現在の地に移転しました。

笹屋ホテル 西之門「吉野屋」の人々

昭和初期の笹屋ホテル

乾荘

1931年(昭和6年)、地元銀行に勤めていた坂井修一が銀行を退き、本格的にホテル経営に乗り出しました。
1932年(昭和7年)頃、旧帝国ホテル本館設計者として知られるフランク・ロイド・ライト博士の高弟遠藤新先生に、数奇屋造りの別荘(西館)と中広間の設計を依頼。この頃から、第二次世界大戦が始まる頃(1939年・昭和14年)にかけ、別荘(乾荘)・南館・東館と増築を重ねてきました。
戦時中、温泉の各旅館は疎開児童の受入れ先となりましたが、当笹屋ホテルも、現豊島区の時習小学校の児童を受入れていました。

戦後、時代の波

食糧難の時代を乗り切り、生活は徐々に安定を取り戻してきました。
1964年(昭和39年)東京オリンピックを迎え日本全体が華やぐ中、戸倉上山田温泉も静かな温泉から、大量の宿泊を伴う団体観光客招致へと、徐々にその性格を変えていきました。このことは、木造の建物から高さを要求する建物への変化でもありました。

こうした時代の要請に応え、笹屋ホテルでは1964~1965年(昭和38~39年)、古い建物を壊し、鉄筋コンクリート7階建ての近代的な大規模旅館を建て、レジャー時代に対応する温泉ホテルとしての装いを纏っていきました。
高度成長の足音が坂を快調にかけ登り、戦後の貧困を耐え抜いてきた人々の中に、豊かさへの憧れと期待感が生まれていった時代です。
「ブームが去れば特徴のない華美な宿泊施設。今にして思えば、笹屋が本来求めていた簡素な贅沢さ、ほんとうのおもてなしの姿勢とは違う方向に進んでいたのかもしれません」坂井修一の嗣子永一は、雑誌の取材に応じてこう語っています。そしてその言葉通り、この7階建ての建物は後に取り壊され、現在は落ち着いたたたずまいの建物に改装されています。

宴会場

笹屋ホテルの現在とこれから

束縛化翁是開明 春の陽射し

この書は、1899年(明治32年)に信州佐久の神津牧場を訪れた福沢諭吉が、牧場主神津邦太郎より温泉開発に苦闘する義兄坂井量之助を紹介され、福沢が激励の揮毫を送ったものと伝えられています。「束縛化翁是開明」は、「造化の神様をしばり上げて、これを人間の生活の幸せのために使いこなすこと、これが文明開化」であるという意味だといいます。

1993年(平成5年)、戸倉上山田温泉は開湯100年の年を迎えました。その後笹屋ホテルは大改築に着手し、1997年(平成9)年、グランドオープンに至りました。
笹屋ホテルの一画にある数寄屋造りの別棟は、2003年、有形文化財に登録され、名を豊年虫と改めました。伝統的な日本建築にホテルの手法を取り込み、近代日本旅館のモデルになったと言われております。

笹屋ホテルで育まれた文化・伝統と共に、ゆとりと落ち着きのある日本建築の良さを最大限に活かしたこれら建物を永きにわたって守り、「より心豊かなひととき」を創造し、広く提供していきたいと願っております。