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「笹屋の三婆あ」と呼ばれた気丈な女たち

旧戸倉宿にかつての反映を―――
温泉開発に情熱を注ぎ、私財を注いだ開祖坂井量之助の願いが叶い「清涼館笹屋ホテル」をオープンしたその翌年、日露戦争に出征した量之助の息子誠一が帰らぬ人となりました。
さらにその翌年、量之助をも急性肺炎で喪います。
残されたのは、量之助の養母れん、妻たか、嫁千代の女三人でした。
れん、たか縁の長野西之門「吉野屋」藤井家の人々に支え励まされ、女性たちは手を取り合って働きました。今ある笹屋ホテルの雰囲気は、この女性たちの深く静かな精進の歳月がかもし出したものだといえるでしょう。
藤の木は上田藩邸「梅屋敷」を分家坂井寛三郎が明治2年に取得、その後ホテルに移植したものです。
14代小太郎夫人 れん ![]() |
15代量之助夫人 たか(多可) ![]() |
16代誠一夫人 千代 ![]() |
17代修一夫人 みつ ![]() 若い女将となって笹屋ホテルを切り盛りし、調度やしつらいにセンスを磨く。大勢の使用人がいる調理場の采配などを引き受け、その人柄で円滑な流れをつくりあげた。苦しい世界情勢の中で笹屋ホテルを支えた。 |
行儀見習いの場として頼られる

笹屋ホテルは、戸倉上山田温泉随一の温泉宿であり、明治・大正・昭和・平成と百有余年にわたって信州の迎賓館と言われ、数多くの賓客が訪れました。
戦争末期の昭和19年8月、疎開学童受け入れのため多くの温泉旅館が収容されていく中で、笹屋ホテルは特別な営業許可を得て続けられたのも、こうした背景があったからでしょう。
それだけに、従業員には行き届いた接客と礼儀作法が求められ、笹屋ではそれに応えられるよう心がけました。笹屋に縁のある僧侶たちは、仲居が法衣のたたみ方を知っていたことに驚いています。
これを指導したのが千代でした。「笹屋の三婆あ」とも呼ばれたしっかりものの女将が三代にわたって育んだ笹屋独特の風格をさらに味わい深いものにしていくため、千代は従業員たちの言葉遣いや立居振舞いについては特に厳しく臨みました。言葉遣いや躾を身につけさせ、針仕事、お勝手仕事、立居振舞いに気を配る。茶道、華道も、しつけに加え指導しました。そうした評判を聞きつけ、女学校を卒業した良家の子女たちが行儀見習いとして大勢笹屋ホテルに預けられたといいます。

千代は彼女らを半年間は教育期間として従業員と同じ仕事をさせ、他の従業員にも特別扱いさせず、接客のマナーを学ばせました。千代はまた、夜のうちに、お客様のズボンのアイロンかけや小物の洗濯などを行い、翌日お客さまに渡すような細やかな心配り、サービスを心がけました。
その後17代坂井修一に嫁入りしたみつは、若い女将となって笹屋ホテルを切り盛りします。調度やしつらいに持ち前のセンスを磨いていくこととなり、笹屋に新しい空気が流れはじめました。
笹屋ホテルの礎を築いた坂井千代というひと
夫の戦死という冷厳な事実に向かうこととなった千代は、この時弱冠23歳。大姑れん、姑たかのもと、幼子を抱えながら、若女将として懸命に働き、笹屋ホテルの礎を築いていくこととなりました。
戦前は、愛国婦人会の役員をつとめ、出征兵士の留守宅の面倒を見たり、兵士の慰問、遺族の救援救護に力を尽くしました。
また、郡内の各寺院関係の夫人たちを集め、ご詠歌の会や御法話の会を開き、笹屋ホテルを会場に提供するなど活発に動いています。
仏教にも深く帰依しており、戦後派件仏教婦人会埴科支部長も務め活動しました。戦後価値観喪失の時代、戦争未亡人だけでなく、こころの拠り所を求めていた多くの人々に呼びかけ、宗派を越える活動でした。

千代は晩年を幼児教育や地域活動に献身します。
幼稚園「さゆりホーム」(現在はさゆり幼稚園と改名)を開設し、幼児教育の重要性を説きました。多くの子供たちの名付け親ともなっています。
また、地域への還元、貢献につとめ、昭和44年、戸倉町名誉町民の栄に浴しました。



