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中山道「桟の茶屋」~後編~

掲載日/2016年11月下旬
木曽川の朝

 翌朝、チェックアウト前に、もう一度、桟周辺を散策し朝の陽ざしを映した木曽川をのんびり 眺めてきました。宿に戻るとちょうど女将さんが居たので話を聞かせて頂きました。
ここの温泉は以前は地域の人たちが共同で鉱泉を沸かして利用してましたが、当家の先代が温泉の権利を買って、温泉宿として桟温泉を昭和30年頃創業したそうです。古い写真をいくつか見せて頂きました。
その中に興味を引く写真がありました。若旦那さんがなにかで偶然見つけたらしいのですが、桟にあった茶屋の写真らしいと言うのです。古いし、いつの頃かははっきりわかりませんが、「かけはしの記」の原文にもあった、例のお茶屋さんのことでしょうか?幕末には皇女和宮の大行列も通ったことも考えると確かに休憩場所は必要ですね。

資料/木曾の桟

皇女和宮は、「旅衣ぬれまさりけりわたりけく 心もほそき木曽のかけ橋」と詠み、江戸に下る悲しみの心境をつづっています。
木曾の桟の跡が案外あっさりしていた分、その茶屋について興味が湧いてきました。女将さんにお礼を言って宿を出た後、早速、上松町駅にある観光案内所を訪ねました。事情を話すと係に方は何冊か資料を見せてくれました。係の人も資料にある内容だけでそれ以外詳しい事は解らない、ということでしたがとりあえず桟の茶屋に関する部分をコピーして頂きました。

桟の茶屋と御野立所の絵図面

 桟の茶屋は上松町史第8章口頭伝承の第1節上松町の民話と伝説の中で紹介されています。
民話と伝説の中の項目ですからなんともはっきりしませんが、子規は茶屋について書いているのでまさか伝説ではありません。他の資料では明治天皇巡幸のおりには、桟の茶屋が御野立所となったとあり、絵図面も紹介されていました。
桟の茶屋がいつからあるかは資料からは解りませんが、木曽川沿いを何度か移転しているようです。明治天皇が桟の御野立所でお休みになった時は江戸時代から移転した場所だったようで、島崎藤村が子供の頃休んだのもこの茶屋だったとあります。屋号は上野屋でした。

「昭和十四年に山頭火が通るころは、まだこの茶屋はやっていましたが昭和四十一年国道19号線の大工事で、茶屋の廃屋も取り壊され、句碑も対岸に移され、石垣も道路の下となり、ずいぶん昔と変わってきました。」と上松町史は書いています。
確かに県歌「信濃の国」にも詠われている木曾の桟ですが、現状を見れば随意分と変わったのでしょう。中山道の三大難所の木曾の桟の袂にあったお茶屋さん、みなさんどんな思いで一休みしたのでしょう。高所恐怖症の私でしたら子規の記述そのものだったのではないでしょうか。今はその形跡もありませんし、はっきりした写真や案内もありません。
はたしてどんなお茶屋さんだったのだろうと情景を想像するとワクワクしてきます。石垣が見える対岸の温泉宿が今はその代わりなのかもしれませんね。桟の茶屋に絞って調べれば詳しく判るかもしれませんが、今回は時間がなく残念でした。しかし「木曾の桟見学」がメインの旅に「桟の茶屋」という埋もれた宝物を発見したような気分で良い旅になりました。
中山道の前身は東山道、まだまだ隠れた歴史の宝物がありそうですね。

木曽/紅葉の絨毯

 子規はその後、やはり「信濃の国」にも詠われている名勝「寝覚めの床」を見学して中山道を馬籠宿へと向かっていきました。せっかくだからと、帰りに私も寄って帰ることにしました。駐車場からはけっこう山道を下ります。もう晩秋、山々の紅葉は見ごろを終えていましたが、木曽川に近づくとの名残の紅葉が絨毯を敷いて迎えてくれました。