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中山道「桟の茶屋」~前編~

掲載日/2016年11月下旬
奈良井宿

 明治24年、東京大学の学生だった正岡子規は、善光寺を参拝し、善光寺街道から中山道木曾路を通って愛媛県松山に帰っています。
善光寺街道での一場面は「るぽ信州」の初回(「正岡子規「かけはしの記」より善光寺街道・乱橋宿)に書いていますが、今回は紀行文「かけはしの記」の文名になっている「木曾の桟」へ行ってみることにしました。

 長野自動車道塩尻ICから国道19号線、中山道に入って上松宿(上松町)を目指します。途中には贄川宿、奈良井宿、藪原宿、福島宿があります。 宿場案内板も統一さてそれぞれに道の駅があって、単調な山間の道中を飽きさせないと言わんばかりです。奈良井宿は観光地としてしっかり整備されていて、散策、お買い物にも十分楽しめますので、寄り場所としてはお勧めです。

木曾の桟の石積の跡

あいにくの雨降りに今日は観光客も少なめでした。中山道をさらに進み、そろそろ場所の情報をと道の駅「木曽福島」に立ち寄り、観光案内の方に、今宵の宿の場所を聞きました。

 木曽川沿いにある一軒宿にチェックインして、「木曾の桟」を見学に行きました。「木曾の桟」は宿の前を流れる木曽川の対岸にあります。「木曾の桟」というのは、対岸に見える断崖絶壁に木曽川に沿って作られた木の桟道のことで、対岸にかけられた橋ではありません。
…と説明が難しいので画像を見てください。現在は当時の石積だけが残っているだけで、なんとも予想外れでしたが、いかに難所だったかは、かけはしの記に書かれている子規の文面から想像することができます。

木曾の桟の案内看板

 さて、子規はいよいよ「木曾の桟」にやってきます。
原文には「…福嶋をこよひの 旅枕に定む。木曾第一の繁昌なりぞ」とありますので、前日は福島宿で旅の疲れを癒したのでしょうか。善光寺街道で泊まった乱橋宿の「あやしき宿」よりは居心地がよかったのかもしれませんね。宿を出て桟に差し掛かるあたりからの状況を現代語訳にしたものから辿ってみましょう。

宿屋を出ると雨がやんだ。この間にと急ぐが、雨に追いつかれ、木陰で休んでいるとまたやんだ。とにかく、雨にもてあそばれながら進み、桟に着いた。見た目からして危ない両岸の岩が、数十メートルの高さに立っている様子は一対の屏風を立てているようだ。神話の時代から苔がはえ重なり美しく青くなっている間に何気なく咲いているツツジの麗しさは狩野派の絵の様だろうか、土佐派の絵の様だろうか。
さらに一歩進んで下を覗けば、五月雨で水かさが増えている川の勢いで渦巻く波が雲をも流すように突いては割れ、当たっては砕ける響きで大きな岩も動いてしまうような気がして、後ろにあった茶店に入り腰かけに座り目をつぶっても大地が動いてしまいそうな気持はしばらくおさまらない。
松尾芭蕉の石碑を拝んで虹の形のような小さな橋を渡ると、自分が空中に浮かんでしまいそうで、足の裏が冷や冷やとして強くも踏めないまま通る、通ってきた方を見渡せば、ここが桟の跡なのだと思うが、今は石を積み固め、苦労もなく行き来ができる、ただ蔦が力一杯延びている事が昔の面影である。

(現代語訳:桟温泉旅館ブログより引用)

正岡子規の句碑

 文中に「…茶店に入り腰かけに座り目をつぶっても大地が動いてしまいそうな気持はしばらくおさまらない」とあります。肝を冷やしながら通った子規の心境がわかる気がしますね。

【俳句】
かけはしや あぶない処に 山つつじ
桟や 水にとどかず 五月雨
【短歌】
むかしたれ 雲のゆききのあとつけて わたしそめけん木曾の桟

と子規は詠んでいます。

~後編へ続く~