東御市湯ノ丸高原のレンゲツツジは6月中旬から下旬が見ごろで特に「つつじ平」と呼ばれる群落地は人気のスポットです。
「つつじ平」は湯ノ丸高原スキー場の第一ゲレンデの先にあり6月末までの2週間はリフトが特別運行されます。「つつじ平」までは行ったことがなかったので、リフトが動いているうちにと行ってみることにしました。
浅間サンラインから地蔵峠に向かう県道94号線の「新張」の交差点に来たところで、毎回見ている観音像に屋根がかけられ駐車場も整備されているのに気が付きましたが、今回は花が目的なのでそのまま先を急ぐことにしました。
6月下旬まで見頃という事でしたが、今年は開花が早かったのか地藏峠駐車場付近のレンゲツツジの花はすべて散ってしまいリフト前の案内にも〝つつじ平は散り始め〟とありました。とは言えリフトは動いていることだし、せっかく来たので目的の「つつじ平」まで行くことにしました。
「つつじ平」に着くと、標高が高い分花は残っていましたがほとんどが萎れた状態でした。少し先を行くと見通しの良いなだらかな斜面に出て、所々に満開の花が残っていました。目の前は湯ノ丸山が綺麗に見えてこれが1週間前ならと残念に思いながら早々に下りのリフトに乗りました。
「新張」の交差点まで下りて来た時に、行きに見た屋根ができた観音像がやはり気になったので立ち寄ってみることにしました。
屋根は最近できたようで真新しくまた観音像の隣には湧水が原水の美味しい水と書いた水道も新設されていました。説明看板によると観音像の正式名は「百体観音石造町石」*で、百体の観音像は「新張」から鹿沢温泉に湯治に行く為の道しるべであり道中の安全を祈願する為に建立したとありました。
*…町石は道しるべで1町は109m。つまり109mおきに置かれた観音像の道しるべです。
観音像を拝みながらの巡礼の先が湯治場というのがこの町石の特色と書いてあり、湯治の為の観音像とは聞いた事がないですし、なぜ遥々地蔵峠を越えてまで群馬県側の温泉に行ったのかも疑問なので戻って調べてみることにしました。
いくつか資料をあたって纏めてみると、一番観音のある新張(旧新張村)や隣接している旧祢津村周辺は江戸時代初期より旗本松平氏の祢津旗本領となっていて鹿沢温泉もその領地だったとありました。観音像の建立は江戸時代の末期に新張村住民と鹿沢温泉の発案で始まり、新張の観音像を一番として1町(109m)ごとに観音像を建立し百番目が鹿沢温泉に置かれました。
明治7年までかかった建立費用については、一番観音が新張村から百番観音は主に鹿沢温泉の温泉客500人から賄われ、その他は新張村や鹿沢温泉周辺だけでなく他の地域からの協力もあったそうです。新張村の一番観音は百体の中でも特に大きく随分と費用が掛かったと思われますが湯治の為にどうしてそこまでできたのでしょうか。
東御市の史料によると、旗本領の支配というのは比較的緩やかで祢津旗本領は共有林などの土地を多く持っていたために暮らしに余裕があり、祇園祭や歌舞伎といった華やかな江戸町方文化も受け入れることができたとあります。確かに旧祢津村には東町の歌舞伎舞台、西宮の歌舞伎舞台と二か所の歌舞伎舞台があり、東町の歌舞伎舞台では毎年4月29日の祢津東町歌舞伎保存会による公演が人気となっています。
今回の最初の目的だったレンゲツツジは時期外れでしたが、ついでに調べた百体観音の歴史がおもしろかったので今回のレポートは百体観音にして改めて観音像を見に行くことにしました。
先ず一番観音で写真を撮り、車の止められない途中の観音像はスルーして八十番観音のある地蔵峠駐車場まで上がりました。八十番観音の説明看板にも1番観音と同様の説明がありましたが、補足として「地蔵峠の頂上は日本列島の中央分水嶺のほぼ真ん中で長野県側に流れる水は千曲川となって日本海へ、群馬県側に流れる水は利根川となって太平洋に流れる」とありました。こんなところに分水領の真ん中があるとは初めて知りました。
麓は天気が良かったのですが頂上に来ると今にも雨が落ちてくるような雲になってきたので急ぎ群馬県側に下りました。
百番観音は鹿沢温泉に1件だけある温泉宿「紅葉館」の入口にあります。鹿沢温泉は何軒も旅館ができるほど人気の湯治場でしたが、大正7年の火災で温泉街は壊滅してしまいました。「紅葉館」はこの地で再建しましたが、他の旅館は嬬恋村側に下りて再建、現在の新鹿沢温泉となりました。ちなみに第一次南極観測隊の西堀栄三郎氏は学生時代に逗留していた「紅葉館」で雪山賛歌を作詞、宿から暫く下った道路は雪山賛歌のメロディーラインになっています。
百番観音の隣には嬬恋村教育委員会が設置した案内板があり、百体観音建立の目的については次のように書かれていました。
江戸時代は観音信仰が最も盛んになったと言われていますので観音像建立にはそのような時代背景もあったのかもしれません。地元だけでなく遠方の人達からの支援もあったという事ですから、巡礼と湯治のダブルでご利益がある旅は随分人気だったに違いありません。
地藏峠の頂上にあるビジターセンターに寄って百体観音について聞いてみると、湯治へ向かう人は、春は山菜、秋はキノコ採りを楽しみながら湯の道を歩いたとか。「遊山のようですね」というと「そうですね」と笑っていました。最初は観音像にすがるほど命がけの旅だったのかと思いましたが、楽しい巡礼旅だったみたいで温泉旅の楽しさは今も昔も変わらないと思いました。
標高1730mの地藏峠の気温は通り雨もあって21℃でしたが、一番観音のある「新張」に戻ったときは真夏の日差しで30℃。再び一番観音の駐車場に入りご利益ある美味しい伏流水で一息つきました。