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和リンゴと西洋リンゴ 上水内郡飯綱町「いいづなアップルミュージアム」

掲載日/2025年11月上旬

 長野県は青森県に次いでリンゴの生産量が多い県、10月に入るとたくさんの種類のリンゴがお店を賑わせています。
それぞれに異なった風味が楽しめる信州リンゴですが、今回は味ではなく歴史についてのレポートです。


訪ねたのは数少ないリンゴの博物館、上水内郡飯綱町の「いいづなアップルミュージアム」(以後ミュージアム)。
国道18号線で長野市を過ぎて飯綱町に入ったところで広域農道の北信五岳道路に入ります。
北信五岳とは、主に長野盆地から見ることができる妙高山、斑尾山、黒姫山、戸隠山、飯綱山の事で、沿道からこの五岳が見えるためこの愛称で呼ばれているそうです。ちなみにお隣の群馬県では高崎市や前橋市から見える妙義山、榛名山、赤城山は上毛三山と言われてます。

黒耀石体験ミュージアム

北信五岳道路は丘陵地を走る見通しが良い道路で、両側には先が見えないくらいリンゴ畑が広がっています。案内に従って道を曲がると後から何台か車が付いてくるので案外来館者が多いのかなと思いましたが、他の車はミュージアムの駐車場には入らず先に進んで行きました。500mほど先に人気のサンクゼールワイナリーがあるので他の車はそちらが目当てだったようです。

駐車場に車を停め、早速ミュージアムに向かいます。
ミュージアムには中庭を囲むような弓型をしているカフェがあり、なかなかおしゃれな造りです。

資料館の展示(黒耀石体験ミュージアム)

受付をしてリンゴ博物館に入ると、正面に飯綱町のジオラマがありました。飯綱町は2005年に牟礼(むれ)村と三水(さみず)村が合併して誕生した町で、ジオラマの横には現在のマンホールの蓋と三水村時代のマンホールの蓋が並べて展示されていました。

「星くそ館」へ行くには山に入るシステム

三水村時代のデザインはリンゴ一色ですが、牟礼村は桃が有名なので飯綱町になって以降のデザインは、半分がリンゴで半分が桃になっています。

星くそ館

少し進むと日本のリンゴの歴史についてパネルとリンゴのサンプル(模型)で紹介されていました。

展示によると、先ず日本のリンゴは「和リンゴ」と「西洋リンゴ」に分かれることから始まります。日本でリンゴの名前が記録されたのは平安時代で、中国から渡ってきた粒の小さな野生種を和リンゴと呼びます。飯綱町高坂地区に伝わった和リンゴは「高坂(こうさか)リンゴ」と呼ばれてきました。
高坂リンゴは収穫期が8月中旬から下旬と短く、大きさもピンポン玉くらいで渋み酸味が強く食用には向いていないことから主にお盆のお供え物として売られてきたそうです。

日本で食用のリンゴが栽培されるようになったのは明治時代の初期にアメリカから苗木が輸入されてからで、このリンゴは従来の和リンゴに対して西洋リンゴと呼ばれました。現在リンゴと呼ばれているのはこの西洋リンゴの事で、冷涼地が栽培に向いていることから信州や東北地方で広く普及してきました。
飯綱町で本格的に西洋リンゴの栽培が広がったのは昭和初期で、養蚕業の衰退により桑の代替産物として栽培が進められました。順調に普及するかと思われたリンゴ栽培ですが、太平洋戦争によって日本の食料事情が苦しくなるとリンゴは国民の主要な食料ではなく嗜好食品とされて増殖の禁止や伐採命令が出されてしまいます。終戦の後、リンゴ園の建て直しが盛んになり新品種の研究も展開され高級りんご作りが拡大します。特に旧三水村では1968年(昭和43年)には全国の生産量のおよそ1%を記録、日本一のりんご村として話題になりました。

西洋リンゴが広がる一方で、和リンゴは廃れていきます。飯綱町高坂地区の高坂リンゴも一時絶滅の危機となりましたが、町内の故 米澤稔秋氏らが保存に取り組み、今では飯綱町の天然記念物に指定されています。根分けされた木はミュージアムの敷地にも植えられています。

「星くそ館」の中の展示

資料のコーナーを過ぎて奥に入るとリンゴに関する様々なグッズや展示されていました。懐かしいものや奇抜な物があったりで少々戸惑いましたが、ミュージアムのキャッチコピーが「とことんりんごにこだわった、りんごづくしのユニークな博物館とギャラリー展示室を併設したミュージアムです」なので納得です。
この日は、リンゴ博物館の隣のギャラリー展示室で「竹の彫刻 西村大喜の世界」というタイトルで竹を使ったアート作品が展示されていました。その後は古着をリメイクしたファッションショーも予定されているなど、なかなか話題の豊富なミュージアムのようです。

黒曜石

一通り見学した後、ミュージアムの外に出て敷地にある高坂リンゴの木を見に行きました。
時期がとうに過ぎているので赤黒くなっていましたが、ギリギリ落下前の写真を撮ることができました。現在のリンゴと比べると随分小さくて、これで渋み酸味が強いとなると確かに食用には難しかったと思われます。
それでも最近は、高坂リンゴを使ったシードルが作られていて飯綱町の名産品として販売されているそうなので、今後は高坂リンゴの生産量も増えるかもしれません。

ミュージアムを後にしてまた北信五岳道路を走って帰路につきましたが、一面のリンゴ畑を見た時に「次回は花の時期、初夏も良いかな」と思いました。

さて、今回は特別下調べもなく訪問した「いいづなアップルミュージアム」でしたが随分勉強になりました。日本のリンゴには和リンゴと西洋リンゴがあること。旧三水村が日本一の生産量を誇った時代があったこと。そしてなにより昭和の初めの世界恐慌により不振になった養蚕業に替わって奨励されたリンゴ栽培が太平洋戦争時には栽培中止にされ戦後にまた復活し現在に至るというリンゴにとっても波乱万丈の時代を過ごしたことです。戦後の復興に「リンゴの唄」の大ヒットを考えれば日本人のリンゴ好きは味だけでないような気がします。

リンゴ博物館の展示で、島崎藤村の「若菜集」の詩 "初恋" が詠われたのは明治初期に木曽馬籠宿の情景で、この詩にあるリンゴは和リンゴだったという記載がありました。詩の中では少女が少年にリンゴの実を渡しています。はたしてこの和リンゴの味はいかがだったでしょうか? もちろん・・・・ですね。