戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」全室源泉100%の温泉宿戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」全室源泉100%の温泉宿

歴史と振り返る笹屋ホテル歴史と振り返る笹屋ホテル

戸倉温泉の始まり戸倉温泉の始まり

戸倉温泉の生い立ち

詩情豊かな千曲川原に生まれた戸倉温泉は、今日みられる堤防築造までは、水魔との闘いの歴史でした。
若宮・下戸倉・上山田三か村の境界地付近の千曲川原に、温泉が湧出しているのが発見されたのは、1870年頃(明治の初め)と伝えられています。
1994年(平成6年)4月、戸倉温泉は隣接する上山田温泉と共に「開湯100年」を迎えました。

戸倉温泉

寂れてゆく旧戸倉宿を昔のように戻したい――― 【第1次戸倉温泉】

坂井量之助 工事

湧出している温泉の試掘の時を経て、1893年(明治26年)度重なる困難を乗り越え、千曲川左岸(戸倉区向原)に戸倉温泉開業の歓声が轟きました。

かつて北国街道の宿場として栄えた下戸倉界隈は、大政奉還と共に昔日の面影なく寂れてゆきました。その上、信越線開通に際し戸倉駅は設置されず、町は繁栄から取り残された恰好となったのです。
疲弊していく様を目の当たりにした坂井量之助(1859・安政6年~1905年・明治38年)は、郷土復興に立ち上がり、精魂を傾け温泉開湯にこぎつけたのでした。開湯式は、花火100本が打ち上げられ、大神楽、練りものがくり出され盛大に行われました。この量之助が、当笹屋ホテルの創業者です。

水害を乗り越え、復興 【第2次戸倉温泉】

千曲川は、毎年雨季になると東に西にと流身を変え、沿岸住民の生活を脅かしました。量之助は千曲川の増水・氾濫に屈せず復興のために私財を投じて奔走しましたが、中部地方を襲った猛烈な雨台風が起こした大氾濫・大洪水は戸倉温泉を呑込んでしまいました。

これまでは坂井量之助一個人の温泉開発でしたが、開発は社会公共保健福祉の事業であり、広く地域の協力により信州一の温泉場を目指そうとの目標を掲げました。1900年(明治33年)8月、量之助は罹災者の救済と温泉復活再起の思いを抱いて奔走し、有志8名の協力を得て戸倉温泉株式会社を設立します。
新たな温泉創設にあたり、厚く高い赤レンガ積みのポンプ台を建設、千曲川を分水して水路を通すなどし、1902年(明治35年)10月、千曲川右岸(戸倉区大西)に待望の戸倉温泉が開湯されました。

しかし、1907年(明治40年)8月、千曲川の氾濫により温泉施設が流失し、減湯・低温・やむなく休湯の日が続きました。度重なる欠損のため1908年(明治41年)会社は解散することとなったのです。

水害 帳簿

戸倉駅の新設、現在の戸倉温泉へ 【第3次戸倉温泉】

新設戸倉駅
大正橋 「温泉開祖坂井量之助」の頌徳碑

その後、1910・1911年(明治43・44年)にも出水騒ぎがあり、そのたびに温泉は休湯する有様でしたが、1912年(明治45年)2月、ついに量之助が悲願としていた戸倉駅が新設されました。量之助の没後7年、開駅当日量之助の墓所に花を供えた人々がいたことは、歴史書には伝わらない、坂井家の歴史です。
そして1914年(大正3年)6月、千曲川に大正橋が架けられ渡船交通時代が終わり、彼我の往来が一新しました。1916年(大正5年)、多くの困難を克服して同年12月、戸倉温泉は再び左岸の向島に戻り第三次の開湯を果たしました。
ここに現在の戸倉温泉の基が築かれこととなります。1919年(大正8年)千曲川の堤防築造工事が始まり、ようやく永年の水魔から脱することができました。

昭和3年、戸倉温泉に正木不如丘作・中山晋平作曲の「千曲小唄」が誕生しました。
翌4年晩春には、不如丘が竹久夢二を伴って笹屋ホテルに滞在し、絵はがきをはじめたくさんの絵を残して帰郷しました。千曲川に架けられた現在の大正橋には、この「千曲小唄」の一節と絵はがきの夢二の絵が掲げられています。

昭和31年6月、温泉地を見渡す千曲川畔に「温泉開祖坂井量之助」の頌徳碑が建立されました。