戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」全室源泉100%の温泉宿戸倉上山田温泉「笹屋ホテル」全室源泉100%の温泉宿

歴史と振り返る笹屋ホテル歴史と振り返る笹屋ホテル

坂井家の女性たち坂井家の女性たち

「笹屋の三婆あ」と呼ばれた気丈な女たち

旧戸倉宿にかつての反映を―――
温泉開発に情熱を注ぎ、私財を注いだ開祖坂井量之助の願いが叶い「清涼館笹屋ホテル」をオープンしたその翌年、日露戦争に出征した量之助の息子誠一が帰らぬ人となりました。
さらにその翌年、量之助をも急性肺炎で喪います。

残されたのは、量之助の養母れん、妻たか、嫁千代の女三人でした。れん、たか縁の長野西之門「吉野屋」藤井家の人々に支え励まされ、女性たちは手を取り合って働きました。今ある笹屋ホテルの雰囲気は、この女性たちの深く静かな精進の歳月がかもし出したものだといえるでしょう。

写真は前左れん、前右たか、後左千代。
藤の木は上田藩邸「梅屋敷」を分家坂井寛三郎が明治2年に取得、その後ホテルに移植したものです。

満開の藤棚の下で
14代小太郎夫人 れん
れん

小太郎は初期の県議会議員なども勤めるが男子がなく早くから分家寛三郎の次男・養嗣子量之助に代を譲り、東京日本橋に隠居。45歳で早逝。れんは量之助・誠一の急逝後、嫁たかとともに生家長野西之門「吉野屋」藤井家の扶けを得て笹屋を支えた。

15代量之助夫人 たか(多可)
たか

量之助の陰で坂井家の窮乏に耐え、その交際を極度に切り詰める等家政を改革。誠一の急逝後、自ら心棒となり遺族を結束、慣れないホテル経営に当たり家運復興に努めた。大門町藤井名左衛門俊昌の長女。兄昌隆は藤井家養子13代伊右衛門。長野学校第一期卒業生中唯一の女子で、卒業の年15歳で坂井家に嫁ぐ。

16代誠一夫人 千代
千代

幼い修一を抱えながら、従業員に行き届いた接待法、礼儀作法等を徹底、笹屋ホテルの雰囲気をつくり出した。生家は上田の分家坂井家。夫・誠一とともに上田坂井寛三郎の孫にあたる。明治33年父正太郎を失う。翌明治34年20歳で戸倉坂井家に嫁ぐが、3年後23歳で夫と義父を失う。仏教に深く帰依し活動、愛国婦人会の役員やさゆりホーム(保育園)設立など地域貢献に尽力する。

17代修一夫人 みつ
みつ

17歳で坂井家に嫁ぐ。生家は銘酒「喜多の井」で知られた古くからの酒造所、水内村(現信州新町)の塩入家。
若い女将となって笹屋ホテルを切り盛りし、調度やしつらいにセンスを磨く。大勢の使用人がいる調理場の采配などを引き受け、その人柄で円滑な流れをつくりあげた。苦しい世界情勢の中で笹屋ホテルを支えた。

行儀見習いの場として頼られる

千代と従業員女性
帳場で電話対応をするみつ

笹屋ホテルは、戸倉上山田温泉随一の温泉宿であり、明治・大正・昭和・平成と百有余年にわたって信州の迎賓館と言われ、数多くの賓客が訪れました。
戦争末期の昭和19年8月、疎開学童受け入れのため多くの温泉旅館が収容されていく中で、笹屋ホテルは特別な営業許可を得て続けられたのも、こうした背景があったからでしょう。

それだけに、従業員には行き届いた接客と礼儀作法が求められ、笹屋ではそれに応えられるよう心がけました。笹屋に縁のある僧侶たちは、仲居が法衣のたたみ方を知っていたことに驚いています。

これを指導したのが千代でした。「笹屋の三婆あ」とも呼ばれたしっかりものの女将が三代にわたって育んだ笹屋独特の風格をさらに味わい深いものにしていくため、千代は従業員たちの言葉遣いや立居振舞いについては特に厳しく臨みました。言葉遣いや躾を身につけさせ、針仕事、お勝手仕事、立居振舞いに気を配る。茶道、華道も、しつけに加え指導しました。そうした評判を聞きつけ、女学校を卒業した良家の子女たちが行儀見習いとして大勢笹屋ホテルに預けられたといいます。

千代は彼女らを半年間は教育期間として従業員と同じ仕事をさせ、他の従業員にも特別扱いさせず、接客のマナーを学ばせました。千代はまた、夜のうちに、お客様のズボンのアイロンかけや小物の洗濯などを行い、翌日お客さまに渡すような細やかな心配り、サービスを心がけました。

その後17代坂井修一に嫁入りしたみつは、若い女将となって笹屋ホテルを切り盛りします。調度やしつらいに持ち前のセンスを磨いていくこととなり、笹屋に新しい空気が流れはじめました。

笹屋ホテルの礎を築いた坂井千代というひと

夫の戦死という冷厳な事実に向かうこととなった千代は、この時弱冠23歳。大姑れん、姑たかのもと、幼子を抱えながら、若女将として懸命に働き、笹屋ホテルの礎を築いていくこととなりました。

戦前は、愛国婦人会の役員をつとめ、出征兵士の留守宅の面倒を見たり、兵士の慰問、遺族の救援救護に力を尽くしました。
また、郡内の各寺院関係の夫人たちを集め、ご詠歌の会や御法話の会を開き、笹屋ホテルを会場に提供するなど活発に動いています。
仏教にも深く帰依しており、戦後派件仏教婦人会埴科支部長も務め活動しました。戦後価値観喪失の時代、戦争未亡人だけでなく、こころの拠り所を求めていた多くの人々に呼びかけ、宗派を越える活動でした。

千代は晩年を幼児教育や地域活動に献身します。
幼稚園「さゆりホーム」(現在はさゆり幼稚園と改名)を開設し、幼児教育の重要性を説きました。多くの子供たちの名付け親ともなっています。
また、地域への還元、貢献につとめ、昭和44年、戸倉町名誉町民の栄に浴しました。

千代と家族